小島一郎 北へ、北から

2014年8月3日(日)―12月25日(木)
つがる市木造 1958年 個人蔵 © Hiroko Kojima

― 故郷青森と東京のはざまで―

小島一郎(1924-64)の没後50年となる展覧会を開催いたします。青森市で玩具と写真材料を扱う商店の長男として生まれ育った小島は、父親の影響で写真を学び、写真雑誌などで作品の発表を始めます。津軽や下北の日常的な風景を題材としながらも、当時の主流だったリアリズム写真と一線を画した造形感覚と詩情あふれる作品は早くから注目されました。

1958年、報道写真の先駆者・名取洋之助の強い後押しによって東京で最初の写真展「津軽」を開催し、写真家として順調なスタートを切りました。
1961年、プロの写真家を目指して上京、二度目の個展「凍ばれる」を開催しましたが、郷土を題材として世に出た小島にとって異なる環境での撮影は困難を極めました。東京での後ろ盾であった名取の死も重なり青森に帰郷した小島は、北海道での撮影に再起を賭けるものの、度重なる過酷な撮影から体調を崩し、39歳の若さで急逝しました。

本展では小島が写真の編集と作品紹介用に制作した「トランプ」と呼ばれる名刺サイズの写真の展示をはじめ、東京で開催された個展「津軽」と「凍ばれる」の一部再現を行い、青森と東京のはざまで揺れ動いた小島の心情と名取の影響下にあった制作過程に焦点を当てながら小島が抱え込んだ「北」の意味を問いかけます。2009年の青森県立美術館での回顧展で再評価された小島一郎の新たな側面をご紹介します。
西津軽郡深浦町北金ヶ沢 1957-58年頃
個人蔵 © Hiroko Kojima

小島一郎の「トランプ」


小島一郎は名刺サイズに引き伸した写真の束をよく持ち歩いていました。写真仲間に批評を求めたり、編集の検討をするためだったようです。小島の胸ポケットから出てくる小さなプリントを仲間たちは親しみを込めて「トランプ」と呼んでいたといいます。コンタクトプリントよりも大きいため、カットが判別しやすく覆い焼きも可能なサイズでした。また、ネガの整理や編集者などへプレゼンテーションのために「トランプ」を台紙に貼付けたアルバムを制作していました。


「 トランプ」が貼付けられたアルバム 1960年頃 個人蔵
© Hiroko Kojima

個展「津軽」設営風景(1958年/小西六フォトギャラリー、東京・銀座)、右から名取洋之助、小島一郎、秋元大助[小島弘子提供] © Hiroko Kojima
個展「津軽」と「凍ばれる」からさらなる「凍ばれる」地へ

「岩波写真文庫」の調査のため青森を訪れた名取は、小島の作品を「この作者は異常性格だ」と高く評価したようです。名取の強い後押しにより、1958年に東京・銀座の小西六フォトギャラリーで小島の初めての個展「津軽」が開催されます。土門拳が牽引するリアリズム写真旋風が吹く中での出来事でした。「津軽」は写真を一点一点で見せるのではなく、読む写真としての「組写真」を提唱していた名取の影響を垣間見させる120点ほどのパネル展示でした。名取は展示の方法やセレクションについて積極的に助言を行っただけでなく、展示設営の際に足を運び、言葉も寄せています。若くして才能を認められた小島は、この3年後東京での活動に踏み切ります。

下北郡大間町 1961年頃 個人蔵
© Hiroko Kojima
1961年、小島は家族とともに上京、「下北の荒海」でカメラ芸術新人賞を受賞すると、翌年に2 回目の個展「凍ばれる」を富士フォトサロンで開催。中間調の出ないミニコピーフィルムを用いるなど複雑化した技法と造形的要素を強めた下北の写真が眼を惹きます。東京での個展はいずれも故郷・青森で撮影されたもので、東京を主題としたものは『カメラ毎日』に発表された「東京の夕日」だけでした。
大きな後ろ盾であった名取の死もあって、東京での活動に行き詰まった小島は青森に帰郷、北の大地・北海道の撮影に挑みます。
この時北海道で撮影したネガは見つかっていません。度重なる過酷な撮影で体調を崩していた小島は「最近シャッターを切れなくなった」、「想像していた以上に北海道は広かった」と友人に語っていたといいます。


◎関連イベント
【トーク・イベント】
「小島一郎をめぐって―北を編む」

2009年に青森県立美術館で開催された「小島一郎北を撮る」展で提示された問題系を引き継ぎながら、小島一郎にとっての「北」の意味を問う。
出演者:大島洋(写真家)
北島敬三(写真家)
倉石信乃(明治大学教授)
高橋しげみ(青森県立美術館学芸主査)
小原真史(当館研究員)
日時:9月28日(日) 午後2:30-4:00
会場:クレマチスの丘ホール(美術館隣接特別会場)
参加無料(当日有効のIZU PHOTO MUSEUM 入館券が必要です。)、定員100名。
お電話でお申し込みください。Tel. 055-989-8780

【ギャラリートーク】
学芸員が展覧会解説を行います。
日時 :8月30日(土)/10月25日(土)/11月15日(土)/12月20日(土)
※各回午後2:15-( 約30分)

無料、申し込み不要(当日有効の入館券が必要です。
美術館受付カウンターの前にお集まりください)。
つがる市稲垣付近 1960年 個人蔵
© Hiroko Kojima

◎関連書籍
■小島一郎 生前唯一の作品集『津軽 詩・文・写真集』(1963年)を当館より復刊いたします。


石坂洋次郎編、写真=小島一郎、文=石坂洋次郎、方言詩=高木恭造
『<復刻版> 津軽 詩・文・写真集』(限定1000部、ナンバー入り、本体4,200円+税)
2014年11月1日(土)より当館ミュージアムショップおよびクレマチスの丘オンラインにて発売中。

※ご購入時のナンバーはご指定できませんのでご了承ください。

<発売中>(当館ミュージアムショップで販売しております)

■小島弘子著『暖かい陽射し』(渓声出版、2014年、本体2,000円+税)
■青森県立美術館監修『小島一郎写真集成』(インスクリプト、2009年、本体3,800円+税)
■『INOUE SEIRYU / KOJIMA ICHIRO』(RAT HOLE、2007年、本体2,381円+税)


小島一郎 [小島弘子撮影・提供]
© Hiroko Kojima
小島一郎 略年譜

1924年(大正13)青森県青森市大町(現・本町)に、「小島商店」を営む父・平八郎、母・たかの長男として生まれる。
1942年(昭和16)第12回東奥美術展写真部門で《冬の日ざし》、《早春》、《淡雪》が入選。
1944年(昭和19)現役兵として徴集され、第47師団に所属。
1945年(昭和20)済南臨時予備士官学校に入隊中に終戦の知らせを聞く。
1946年(昭和21)青島から船で帰国。空襲で焦土と化した故郷の姿に衝撃を受ける。
1954年(昭和29)写団「北陽会」会員になる。
1957年(昭和32)前年出会ったと思われる名取洋之助と青森・八甲田酸ヶ湯で再会。
1958年(昭和33)初個展「津軽」を東京・銀座の小西六フォトギャラリーで開催(大阪、福岡にも巡回)。
1961年(昭和36)井上青龍とともにカメラ芸術新人賞を受賞。父の反対を押し切って上京。
1962年(昭和37)第2回個展「凍ばれる」を東京・銀座の富士フォトサロンで開催。
1963年(昭和38)生前の唯一の写真集となった『津軽―詩・文・写真集―』が刊行される。
1964年(昭和39)北海道の撮影後、青森市で静養。青森市のアパートにて心臓麻痺で死去。

【写真集】
1963年(昭和38)『津軽―詩・文・写真集―』(詩・高木恭造、文・石坂洋次郎、写真・小島一郎)新潮社[絶版]
2004年(平成16)『hysteric Eleven 小島一郎』ヒステリックグラマー[絶版]
2007年(平成19)『INOUE SEIRYU / KOJIMA ICHIRO』RAT HOLE[発売中]
2009年(平成21)『小島一郎写真集成』インスクリプト[発売中]

小島一郎と妻・小島弘子の言葉

ただ荒涼とした雪の浜辺に侘しい萱ぶき屋根の家が点々とするだけで、日本海から吹きよせる強風のなかで、やっとわが身を支えているような恰好であった。何ものをも失い、白い大地にへばりついている姿、それはそのまま私自身の姿のようでもあり、あるいは又生きようとする人間の執念の姿かもしれないと思った。*1

人の波、車の波の中にもみくちゃにされてしまうような東京の生活は、静かな東北青森の暮らしになれてきた私には、神経がすりへっていくような思いである。そんな自分をいくぶんでも慰めてくれ、安らぎをあたえてくれるのは、沈みゆく夕日を、ぼう然とながめているときである。その短い時間は、なにもかも忘れさせ、自分一人の世界であるようだ。*2
下北郡大間町 1961年 個人蔵
© Hiroko Kojima

「東京の夕日」 1961-63年 個人蔵
© Hiroko Kojima
冬が近づくにつれて人影もまばらになり、やがて吹雪がうなりをたてて荒れ狂う。村と村とのゆききも疎遠になり、道は雪に埋まり、人間の匂いも土の匂いも消え失せてしまう。橋の上に残るわずかばかりの足跡と、ソリの軌跡だけが人間を感じさせ、果てしない雪原を通りぬけてきた孤独を救ってくれる。*3

果てしもなく広い大地に鍬を入れる農夫、陽の没するまで働き続けている姿は、激しく一郎の胸をうった。敗戦の虚脱の中で反省と自己嫌悪のいりまじる不安定な波のなかにもがいていた一郎は、ただ憑かれたもののように津軽の撮影に熱中していった。意識的、計画的な何ものもなく、自己が受けた感動によって、情熱のほとばしるままシャッターを切っていった。ようやく自分の生きる道を見つけたとでもいうように。*4


*1 小島一郎「私の撮影行」『津軽―詩・文・写真集―』石坂洋次郎編(写真=小島一郎、文=石坂洋次郎、方言詩=高木恭造)、新潮社、1963年
*2 小島一郎『カメラ毎日』1963年9月号
*3 小島一郎『カメラ芸術』1964年2月号
*4 小島弘子『暖かい陽射し』渓声出版、2014年


こちらからニュースリリースをご覧いただけます。